オープンデータのKPI議論について考えてみた
ちょう、久しぶりにポスト。
先日、facebook上で行政機関がオープンデータに取り組み際のKPIに関する議論があったのだが、そこで、ダウンロード数やアクセス数ををKPIに組み入れるという発想について改めて考えてみたくなったので、ここにまとめてみたい。
まず、大前提はOpen by Default(原則オープン)という考え方だ。この概念についてはいろいろと資料をあたってもらえれば良いのだが、ざっくり言えば、行政が作る文書やらデータやらは最初からオープンを前提にして作る。逆に、公開しない、できない場合はアカウンタビリティが求められる。という理解で良い。
公共機関がオープデータに取り組む動機はこの、Open by Defaultという考え方を確認する中で自ずと見えてくる。
オープデータのKPIにアクセス数やダウンロード数を用いようという発想は、データのニーズに沿ったものにしよという意図からくるものなのではないかと思うが、ちなみに、今年の6月に改訂が閣議決定された「世界最先端IT国家創造宣言」でのオープンデータに関するKPIは次のように記載されている。
- 各府省等のオープンデータ達成状況(重点政策課題を中心とした各府省庁のオープンデータ公開状況等)
- データカタログに掲載されたデータセットの数(機械判読に適したファイル形式のデータの登録率、外国語のデータの登録率(いずれも府省毎等)、アクセス数・ダウンロード数
- 地方公共団体、独立行政法人・公益企業等におけるオープンデータ取組状況
- 地方公共団体のオープンデータに係るデータ形式の標準化の普及状況
- 地方公共団体に対する人材支援の実施件数
- オープンデータを活用して開発されたアプリケーション数
- 成功事例における提供情報の件数
このKPIはデータそのものの公開がどの程度進んだかという指標と、その利活用状況に関する二つの指標に大分出来る。
まず、前者について、オープンデータはこれまでの一部の中央府省、地方公共団体が積極的に進めていた。そうした動きを水平的に他の組織にも広げて行こうという方向性が読み取れる。そして、さらに、個々の組織による取り組みにおいても、単にデータ公開数の拡充を求めるだけにとどまらず、データの質について機会判読式データや標準化の普及などにも言及している。
そして、後者については、人材支援、成功事例の発掘と情報共有といったところに注力していく方針であるということがわかる。
アクセス数やダウンロード数という要素もまったく無いわけではないが、あくまでも、データカタログサイトの質の向上という点でのKPIであろう。国家の情報戦略の中のオープンデータは、オープンデータの概念を確認して支持するフェーズから、質と量の拡充、そして利活用の推進へとフェーズが移ったと解釈できる。
ここではKPIにフォーカスして議論しているが、「世界最先端IT国家創造宣言」本文を読むことでさらに理解を深めることができるので、興味がある方は、ぜひ、一読することをお勧めしたい。
ちなみに、6月に改訂される前の「世界最先端IT国家創造宣言」では、Open by Defaultの考え方を支持する一文が掲載されている。その部分を引用してみよう。
公共データについては、オープン化を原則とする発想の転換を行い、ビジネスや官民協働のサービスでの利用ががしやすいように、政府、独立行政法人、地方公共団 体等が保有する多様で膨大なデータを、機械判読に適したデータ形式で、営利目的も含め自由な編集・加工等を認める利用ルールの下、インターネットを通じて公開 する。
オープンデータの議論でよくあるのが、「なんに役に立つのかわからない」というものだ。
オープンデータの考え方ではデータを公開する主体と使う主体は異なることがあたりまえであり、誰がどんな使い方をするかわからない部分に大きな可能性があると捉える。積極的にデータを公開することで、あらゆる分野でイノベーションの機会を最大化することがオープンデータの主な狙いなのである。
そうした前提に立つならば、ニーズが見えないからデータを公開できないという考え方がナンセンスに見えることも理解できるのではないだろうか。(政府はオープンデータにとりくむべき重点分野を明確にしており、ニーズが肌感覚でわからない場合は、この重点分野から取り組んでみるのも良い判断だと思う。)一方で、オープンデータの質と量を高める取り組みにも際限がないとも言えるので、ニーズありきで優先順位を付けてオープンデータに取り組むというのもまっとうな判断と言える。
幸い、国や地方公共団体でオープンデータの推進に先導的な役割を担ってくれる方々は着実に増えているので、いまさら、オープンデータが萎むとは考えていないのだけれど、今後よりいっそうの発展を期待する中では、折に触れて今回のような議論を丁寧に繰り返すこともまた必要なのだろう。